堺周の歴史 – あての極み

堺周の歴史


明治22年  日本橋魚問屋として先々代が創業。
       魚介類を全国から集荷し仲卸に卸す荷受問屋を営む。
       関東大震災後、芝浦市場を経て、築地市場開場と共に入店。
       太平洋戦争後、東京中央市場再開と共に先代社長が会社設立。
昭和46年  大宮店出店
昭和52年  柏店出店
昭和61年  築地市場内に一店舗増設
平成08年  築地市場内に3店舗増設
平成14年  丸甲堺周水産株式会社を新設
平成24年  築地市場内に1店舗増設

    日本橋魚問屋として創業

    弊社は明治二十二年、先々代の酒井静雄が創業しました。当時は全国各地から集荷し仲買に販売する問屋業と問屋から仕入れ小売店に販売する仲買業を兼務する問屋兼仲買業者として営業を行っていました。

     

    大正12年の日本橋魚河岸の見取図

    上図は大正12年の日本橋魚河岸の概要図です。弊社はB区中央に位置しています。
    堺周倉庫の跡地には現在、京菓子「鶴屋吉信」 東京支店が営業しています。明治時代後期から大正時代にかけて、東京の人口は急激に増加し、日本橋魚河岸はキャパシティーの問題、衛生の問題等によって自然と移転を迫られるようになりました。既得権益を守る非移転派と移転派に分かれ、移転問題は紛糾したといわれています。

     

    築地市場において仲卸業者として営業開始

    大正12年の関東大震災によって日本橋魚河岸は全焼したため、芝浦の埋立地を即席の仮設市場とし、弊社もこの仮設市場で営業を行いました。当該芝浦仮設市場はあくまで臨時市場であったため、早期の移転が求められ、地の利・広さ等の面から海軍技術研究所跡であった築地が新市場用地として決定しました。
    築地新市場では単一卸売会社が想定されていたため、新設される卸売会社は日本橋魚河岸において問屋を営んでいた業者から問屋営業権を買収する必要がありました。老舗料査定委員会が設置され、昭和9年に査定が完了しました。

    該当査定金額は、日本橋魚河岸から築地市場に移転した問屋の規模を現しており、最高査定額は共同水産(安倍小治郎)で50万円(現在の2億円相当)でした。続いて尾松(宮坂徳太郎)・須賀竹(勝田竹松)・堺周(酒井静雄)・尾啓(高木兼五郎)・堺辰(田口達三)となりました。この問屋営業権の買収によって、江戸初期から300年余の伝統を持ったいわゆる魚河岸の問屋がなくなることとなり、弊社も築地市場において仲卸業者として営業することとなりました。
    日本橋魚河岸時代の6大問屋の内、現存しているのは弊社のみであり、お蔭様で現在でも大手仲卸業者として営業しております。